大正時代の機関車

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蒸気機関車

明治45年以降国鉄は機関車の製造を国内の工場(国鉄工場・民間の車両会社・造船所)に発注し、ようやく国内の製造で間に合うようになったが、まもなく第1次大戦が勃発した。当時機関車の製造に必要な材料および部品はドイツから輸入されていたが、これらを国内で製作することになり、各種の部品をそれぞれ適当な工場で製作させ、材料は国内の製鉄所で間に合わせてできないもののみアメリカに注文することにした。第1次大戦により運輸が激増したため、機関車の製造両数も明治時代同様急に多くなったので民間工場に発注を計画したが、各工場が多忙なため国鉄工場で9600形式およびC51形式の初期のもののみを製造した。その後経済界の変化に伴い、各種機関車の製造は汽車製造会社・川崎造船所のほか日立製作所の笠戸工場・日本車両会社本社工場・三菱造船所の神戸工場でも製造された。
 機関車の国産化は戦争によって次第に発達し、設計も国内で行うことになり、初期には問題もあったが工場の得た経験は大であり、大正11年から開催されることになった車両研究会等により、我が国の機関車設計・製造ともに日本的な機関車にまで成育した。これは8620形式には我が国独特の先台車構造を採用し、9600形式のボイラ中心を高くすることによって動輪上に火室を置くことに成功したため広火室を採用することになり、ボイラの能力が著しく増大した。このため、構造の複雑なマレー形過熱複式機関車の駆逐の動機となった。9600形式および8620形式のツリアワセに、明治の中頃から島安治朗氏が強調されていたクロスバランスが採用された。明治晩年から使用された過熱式機関車の成績が良く石炭がおおいに節約できたので、一部の機関車を過熱式機関車に改造するとともに、大正時代に製造された機関車のほとんどは過熱式であった。これは機関車用ボイラの使用圧力を上昇し、蒸気効率を高め、ボイラ容量を増すために増圧可能なボイラ胴のリベット継手を補強し、増圧を行った。
 大正10年からは給水加熱器の取り付けを開始し、また、大正12年に大形貨物けん引機関車としてD50形式が製造された。この機関車は連結器を自動連結器に改造(大正14年)したため、けん引力が著しく増大した。大正14年当時外国で流行していた3シリンダ機関車の設計および外国の新しいプラクチスを知るため、特にC52形式の機関車のみを見本的に輸入してC53形式の製造の参考にした。大正8年に製造された18900形式(のちのC51形式)は1750ミリメートルの動輪直径を有し、この直径は我が国の鉄道として最大のもので、また当時狭軌機関車としては世界最大であったものと思われる。この動輪直径は、昭和になってからもこれ以上のものは製作されていない。
 大正時代において機関車は完全に国産化された。設計については大正12年12月、機関車の性能について我が国独特の計算法を朝倉希一氏が案出し、大体の設計は国鉄で行い、詳細な設計は国鉄と民間会社が協力して行った。明治晩年の6700形式は国鉄で設計し、9580形式・9600形式は民間で、8620形式・D50形式は一部国鉄・一部民間会社で、C51形式は鉄道工場で製造する関係上国鉄でそれぞれ設計された。また、このころ空気ブレーキ装置・電気装置および電灯の取り付け工事が開始された。大正時代の機関車の全国保有両数は、3.876両であった。

形式9600蒸気機関車  

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