明治時代の機関車

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蒸気機関車

明治5年5月7日、まず品川ー横浜間が軌間3フィート6インチ(1,067ミリメートル)の狭軌をもって開通し、旅客の輸送を始めた。ついで新橋(いまの汐留)−横浜間が全通し、明治5年9月12日、明治天皇の臨幸の下に盛大な開通式が挙行された。この時我が国で最初に運転された機関車はイギリスから輸入されたもので、これは文政8年ジョージ・スティブンソンが作ったロコモーションという蒸気機関車が、イギリスのストックトンーダ―リントン間を世界で最初に営業列車をけん引してから約47年後のことである。鉄道開通以来イギリスから輸入された機関車は官設工場の新橋(のちの大井)、神戸(のちの鷹取)で組み立てが行われた。明治13年にはじめてアメリカから輸入されてからのちはアメリカ製が多くなり明治の晩年にはイギリス製よりもアメリカ製の方が多くなった。そしてドイツその他の国からも輸入されたが極めて少なかった。
 一方、国内においても少数の機関車が新製された。明治26年には神戸工場で鉄道庁が雇用したイギリス人アール・エフ・トレビシック氏が設計した車輪配置1B1複式タンク機関車860形式は、我が国で新製された第1号機関車である。インゼクタ・圧力計・真空計・エゼクタ・台ワクはroughly・shopedの板を輸入し、シリンダ・車輪・ボイラ等おもな部品は国内で製作され、輪心は錬鉄クズ金を3トンハンマで鋳造して造られた。この機関車は明治25年10月から明治26年6月までの間に機関車修繕の余暇を利用し約8ヶ月で完成したものである。当時イギリスには複式に反対する技術者がいたが、トレビシック氏は単式と複式とを比較する目的で同圧力の150ポンド/インチ平方の圧力を採用し、試験の結果複式は20%以上の利益のあることを証明した。
 神戸工場では初代の汽車監督スミス氏が、在勤中に車輪配置Cテンダ機関車7010形式を2Bテンダ機関車5100形式に改造した。この機関車のエキセントリックを2代目汽車監督ライト氏が在勤中にジョイ式に改造したものがある。以上の機関車に次いでトレビシック氏の設計による車輪配置2Bテンダ機関車5680形式が、山陽鉄道会社・日本鉄道会社等で新製された。明治29年ごろ車両専門の製造工場熱田鉄道車両製造所(明治37年解散)が出現し、引き続いて大阪に汽車製造合資会社が創立された。鉄道国有後に川崎造船所がその兵庫工場(現在の川崎重工(車両))で機関車・客貨車の製造を開始した。この頃は国鉄は機関車の国内製造の方針を定めた。また明治44年7月に機関車の関税が改正され、それまで従価5%であったのが従価20%に相当する従量税となり、価格のいかんによっては関税が約5倍に上昇した。この保護関税と国産奨励の方針とによって機関車の製造が発達することとなった。
 この関税改正の直前にドイツの2会社に注文された車輪配置2Cテンダ機関車8850形式及び8800形式は、我が国における過熱機関車のはじめであるとともに、これによって旅客列車の大きさと速度は急激に増大されたほど画期的なものであった。両形式の製造は関税改正前に納入するため設計の開始とともに材料の調達が行われ、8850形式が2ヵ月、8800形式は約2.5ヵ月というドイツでも当時記録的な速さで製造された。
 このころイギリスから8700形式を、アメリカからは8900形式を輸入し、国鉄と汽車・川崎の各社の技術者がこれらの機関車各部の寸法を精密に測定し、機関車製造のプラテイス(手法)を知ることに努めた。ついで8850形式を川崎造船所で、8700形式を汽車製造会社で模造してから両社の製造技術が大いに進歩した。また川崎造船所がドイツに注文していた機関車製造の専門機会が明治の末に到着し、両社の経験が進んだのと相まって製造能力が増大したので、明治45年に至り国鉄はその翌年度に購入する機関車の全部国内工場に発注することとなった。
 このように、明治時代は鉄道開設以来長らくイギリス製を初めとし、その他外国から輸入された機関車によっていたが、明治晩年には機関車工場がおおいに発達したのでもっぱら国産に切り替えられた。しかし、機関車は小形で独特な構造など特記すべきものはなかった。運輸の発達に伴い次第に機関車は大形となり、日清・日露の戦争のさいには一時的に同型式が大量に輸入されている。火格子面積は0.81〜1.19uから1.58〜1.92uと約2倍になり、ボイラの使用圧力は9.8〜10kg/平方cmから12.7kg/
平方cmに増圧され、最大軸重は9.09〜9・86トンから13.51〜14.19トンに、総重量は23.44〜43.3トンから49.16〜72.89トンになった。
 このころ機関車形式の数は190形式におよび、形式別の平均両数は戦争により輸入されたものを除くと約6.6両程度である。これは鉄道国有法により17私鉄を買収したためこのような多形式におよんだ。その後現在の私鉄に払い下げられ、大正・昭和時代には再度国鉄でこれらの機関車の修理を相互委託工事により施行した。しかし、標準工程内に納まらず工場では関係職員が苦行したものである。明治晩年の機関車の保有両数は、全国で2,340両であった。

型式ア4蒸気機関車  

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